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昭和元禄落語心中 5話

女性を侍らせて帰ってきた助六を閉め出す菊比古。気を悪くした女性たちは帰ってしまい、いじける助六に、「品川心中」の一部を演らせてみると、思った通り助六の演じるお染の品の無いこと。それみろ、遊んでばかり居るから…とは言うものの、遊び呆けている助六が落語も好調で、自分は自分の落語さえまだ見えてこない始末。みよ吉に慰めてもらっても不安や迷いを拭えない菊比古は、それを抱えたまま鹿芝居(噺家による演劇)で女に化けた盗賊・弁天小僧を演じることに。

 

助六の「品川心中」でのお染像が、助六の女性観と直結している描写がユニークで、なるほど、芸の肥やしたあこういうことか、と膝を打った。型となる古典があっても、演者の個性で作品の景色がまるで違ってくる。クラシック音楽のようだねえ。そんな助六のお染像を品がない、と評することが出来るわけだから、菊比古だって一端の審美眼は持ってるってわけだ。しかし自分のことは自分ではよく見えてないもんで、菊比古の持つ中性的な妖艶さを周囲はよく理解している。助六はそこに目をつけて鹿芝居で弁天小僧を演ってくれと来たわけだし、みよ吉だってその魅力に惹かれて危ない橋を渡ってしまっている。この危ない橋を渡る…修行中の身で男を下宿に呼び込んだと知れたら破門ものであるってえとこ、ここがきちっと描かれてるのが良くって、単に母性をくすぐられて面倒見てやってるわけでなく、菊比古にそれほど入れこんじまっているってのが、彼女の仕草を格段に艶っぽくしてるし、そんなみよ吉と菊比古の秘め事は、まるで菊比古の、後の八雲が身に纏う美意識そのものでウットリと見惚れてしまった。

さて、周囲はしっかりと菊比古の魅力に気付いてるんだけども、当人はまるで気づいていない。吐きそう、帰りたいと、女性を演じるプレシャーに押しつぶされそうな菊比古の様子が視聴者視点でも可笑しい。大丈夫、演れるって!と、こちらも助六視点で背中を押したくなる。客を見渡してみろ、みんなお前を観ているぞ、と助六の言葉に、いざ舞台へと上がると、みんな観ている、自分を観ている…とだんだん気分が高まってくる菊比古。このあたりは「アイドルマスターシンデレラガールズ」で、アイドルとしての自信を失った島村卯月が、結局ステージに上るまで自身を取り戻すことは出来なかったけど、ステージで歌うことで今きちんとアイドルとして歌えていて、反応もしっかり返ってくることに徐々に自信を取り戻していく様子と重なった。芸事ってえのは、自分との対話なんだねえ。人様の言葉は手がかりにはなっても、拭えない自分への疑いは自分で晴らすしかないのだなあ。

舞台で調子づいたものの、舞台を降りれば女性を演じることへの気恥ずかしさはまだ拭えず、菊比古の苦悩はまだまだ続きそうだ。この舞台がきっかけとなって、当人が望まざると艶っぽさを求められるようになると話は別だけど、はてさて。