昭和元禄落語心中 6話
鹿芝居の打ち上げの席。俺は人のために落語をやっている、と助六。お前さんはどうなんだい、と問われた菊比古は答えに窮する。何のために落語をしているのか…菊比古は自身の過去や鹿芝居で得た手応えを手がかりに、次の寄席にむけて「品川心中」の稽古に励む。
芸者の家に男の子として生まれ、なれないと誰もがわかっているのに芸者の稽古に励む菊比古の当時の様子が描かれた。女の子を望んでいた両親のエゴとも取れるけども、男の子であっても芸者の家の子である誇りを持って欲しいという愛情からかも知れないし、足を悪くしたから落語家の家に預けられたのだって、捨てられたと受け取ることも出来れば、これ以上子どもに芸者の家の子の重圧をかけたくないという愛情からかも知れない。もっとも、重要なのはそこではないのだけど、物事にはひと言では片付けられない複雑な事情というものがある。菊比古には世界がそう見えてるのだろうけど、客観視すれば別の事情が見えてくるのかもしれない。あくまでも菊比古視点でその辺りが描かれていることが、かえって語られてない部分、見えてない部分の奥行きを充実させている。
さて、何のために落語をやっているのか…そんなことを考えるどころか、芸者の家に捨てられたと思っている菊比古は、今度は捨てられまいと必死に落語にしがみついてここまで来たのだけども、そういう事情だから仕方ない、という思い込みが、それでも感じた落語の魅力を曇らせてしまっていて、また、自身の過去や出自も不幸にしか思っていないから、芸者修行で身につけた自身の個性にも気付かない。鹿芝居で得た感触を頼りに「品川心中」の稽古をしていると、やっぱりそういう艶っぽい落語が向いてると助六に言われて、そういえば過去にもそういうこと言われたっけ…とようやく気づく。ずいぶん遠回りしたもんだ。いや、自分のことはなかなか気づかないからこそ。ここで菊比古が流した涙は、自分が気づいたと思っていたことが実は助六はとうに知っていて、しかも過去に指摘されてたということへの悔し涙なのでしょう。菊比古にとって助六はライバル、負けたくない存在であったのだから。そして、この助六に対する負けん気も、菊比古にとってはマイナスに作用していた。勉強会で「お血脈」を溌溂と演じる助六に、やっぱりかなわない、凄い、自分には到底出来ない…と嫉妬を目一杯募らせたところで、ふっとその荷を降ろすかのように、自分の落語を演るだけだと切り替える。これは、助六には到底かなわない、と助六に勝つことを諦めたとき、助六へのこだわりが覆い隠していた自身の個性が、霧が晴れるように見えてきた瞬間であろうと捕えた。
迷いが一つ吹き飛んだ菊比古が「品川心中」を演れば、客の反応も上々。鹿芝居で得た感触、芸者の家の子として培った色気が自身の武器であると確信が持てて、客の反応から自分の落語のモチベーションも得る。自分のために、自分がここにいても良いのだと実感するために落語をしているのだと。自身の過去、落語と助六との出会い、みよ吉との出会い、戦時中の諸々や喫茶店の常連さんまで、すべてが集約した素晴らしい菊比古の悟りのエピソードでした。
菊比古の演目の途中で、みよ吉が見せた不安な表情は何だったのだろう。弱々しく自身を頼ってくれた菊比古が、落語に取られてしまうのでは、と不安を覚えたんじゃないだろうか、と解釈してみたが…はてさて。